マスコミの役割

マスコミの役割
マスコミとは社会の問題を提起して、問題の解決を図る者。社会の問題は、解決すべき社会の不具合。社会の不具合を放置したなら、社会は悪化の一途を辿る。マスコミの役割とは、社会の正常化に他ならない

世の中の情報量は、人の手に負えないほど膨大です。だから情報は、一人々が必要なものを選別する。情報とは選ぶもの。情報は検索し、検証し、自分自身で選ぶのが基本です。マスコミも同様に、自分に必要なものを選ばなければならない。データの収集と資料化、データの検証とシュミレーション(予測)は、今や情報社会の常識です。国民は社会の環境が向上するマスコミを、選び育てる必要がある

マスコミとは国民の生活を護る、国民が育てるべき危機管理

マスコミの本質は「表現の自由。報道の自由」にある。これが日本では「やりたい放題」に変質してしまっている。マスコミは「正義・有能・実直」が義務付けられた特別職。正義に反するエセマスコミは、自らの生活をも破壊する。情報化社会にあっては、情報は社会の基盤であり、情報を歪める存在は許してはならない

情報の意味は「物事の内容と意図」。情報には物事を理解するための詳細な解説と、意図と呼ばれる情報の形にした理由が含まれる。人の伝える情報には、必ず明確な「意図」が込められる。人は情報が何処に導こうとしているのか、必ず読み解かなければならない

情報社会とは、瞬時に必要な情報が得られ、瞬時に適切な行動ができ、瞬時に様々な手続きができる、リアルタイムで理解と行動ができるインターネット社会を意味する。情報はリアルタイムで活用する時代へと進化している。情報とは「記録データ」。公共情報とは「公開データ」。真実は「データ」からしか見えてこない。情報とは活用するもの。活用できないものを情報とは呼ばない

情報の真実とは、物事を変えていく力にある


そもそも必要な情報は、一人ひとりまったく違う。情報は自らの手によってしか得られない。情報とは自分自身で選ぶもの。強制するものは情報では無く、人が忌むべき隷属です。必要とする情報が存在する場所がマスコミです。情報が存在しない場所を、マスコミとは呼びません

時代は必要な情報が、必要な時に、適切に入手できる情報化社会へと移行している。時代は誰もが適切な情報により適切な分析・判断ができる、情報を共有する時代へと進化している。マスコミとは生活の危機管理。判断と改善ができる「記録データ」を入手できる場所をマスコミと呼ぶ。社会の改善ができないものに、マスコミの資格は無い

人の意見は情報ではない。人の意見は判断であって、経緯・事実などの判断材料が存在しない。自分の都合のいいように、物事を解釈するのが人の意見。人の意見を元に行動すると、とんでもない事態へと発展する。それは人の歴史が証明する。情報とは判断するための判断材料。判断材料を提供するのがマスコミ本来の役割。判断と判断材料はまったく違う

意見とは、一個人の考え・思い・判断基準にすぎない。意見は言わば、人の欲望と言って良いだろう。欲望が情報にすり替わると、欲望と欲望がぶつかり合う阿鼻叫喚の地獄と化す。人の意見を情報にすり替えるのが、話題作りに勤しむ如何様師

人の意見は情報なんかじゃない

「人の意見を鵜呑みにするな」。これは情報社会の鉄則だ。人の意見は、目的を成すための主張にすぎない。いったい何が目的なのか、人の意見はその目的を如実に語る。検証しなければ、まともに見えるのが「邪悪な意見」。人はその立場、つまり立ち位置によって問題の対処が違ってくる。それをいっしょくたにするのだから、とんでもない論法になるのが落ちになる。マスコミは、この立ち位置の違いを利用して、とんでもない論法を組み立てる。つまり、論点をずらして邪悪を正当にすり替える。だから、人の意見は鵜呑みにしてはならない。まともなものは、科学的なしっかりとした「考察」だ。人の意見を持ち出すものは、まともなのには決してならない

人に必要なのは、「自分で」「理解し」「判断」するための「判断材料」。判断材料とは「過去・現在・未来」を的確に把握するための「基礎データ」。自分で判断できない… それは単なる奴隷です。情報化社会とは、必要な情報を検索して判断する、データを元に判断するデータベースの社会。「データ」を元に原因・元凶を特定し、シュミレーションを行いながら、適切な行動を模索する。判断の元となる「データ」を、インターネットに公開するのが、情報を元に行動できる情報化社会の基本です

情報化社会には「情報の公開」と「情報の共有化」が必須になる


膨大な情報量を誇るインターネット社会では、情報との格闘は必至です。マスコミの役割とは、判断するための判断材料をしっかりと揃える事。判断するのは自分であって、マスコミなどでは無い

情報と接する場合、まず最初に行うのは、「これは情報なのか?人の意見なのか?」との判別と、「これは自分に必要なものなのか?」「自分のためになるものか?」「判断できる材料なのか?」との可用性の判断。そして最も重要な「全体像の把握」。全ての事実を繋げて全体像を把握するのは、情報管理の基本中の基本です。情報の判別と、可用性の判別。そして全体像の把握は、情報と接する場合の必須の作業。この作業を怠ると、人は簡単に騙される

情報とは現し世を写す鏡にすぎない。それは幻影なのか現実なのか。真実を写す鏡は、厳しい現実を写しだす。国民が知るべき情報を隠蔽する者は、マスコミなどでは無い


そもそも世の中には、完全な情報など存在しない。情報とはネットワーク状に結合した、無数の関連情報の集合体だからだ。人に必要なのは、状況を的確に把握するための、経緯・状況・予測・他関連する多種多様な情報です。現代社会は物事の理解に、関連する膨大な情報が必要とされる時代です。今や視野の狭い情報は、誤認しか招かない。そもそも理解とは全体像の構築であり、全ての繋がり明らかにする必要がある。物事は全ての繋がりを調査して、その全体像を見極めなければならない代物です。情報とはネットワークであり、情報を知るには、全体の繋がりを繙かなければならない

情報とは単独では存在できない、関連する情報と繋がる膨大な関連情報の集合体。情報は関連するもの全ての膨大な顔を持ち、関連するもの全てに影響を及ぼす多重構造体。一つの側面からしか見ない情報は、欠陥情報にすぎない。情報とは、過去・現在・未来へと繋がる、時系列で纏められた膨大な時系情報の集合体。膨大な過去の情報を元に、来るべき未来を予測する。予測という未来が欠けた情報に意味は無い。物事を判断するには、過去から未来の予測へと繋がる膨大な時系列の情報が必要です

情報は瞬時に変わる、リアルタイムの情報体。情報は得た瞬間に、過去の情報へと変質する。情報は最新でなければ意味をなさない、リアルタムの存在です。継続性の無い情報は、単なる過去の遺物です。情報は蓄積し、最新の情報も含めて一覧で表示して判断する、データベースの情報化社会へと移行している。情報はしっかり纏め、最新の現状をリアルタイムで入手する、情報化社会が到来している

世の中の「不正・腐敗・欠陥」は、情報を記録し、誰もが自由に閲覧できるようにしなければ、理解も分析も解決も絶対に不可能。情報は検証・実証が必須であり、検証作業に必要な記録化と資料化が必須です。消えて無くなる情報は、単なる「警告・宣伝・主張・噂」の類であり、そもそも情報と認識してはならない紛い物。記録された情報は、分析・改善・修正等の判断材料として活用できる

情報は記録しなければ、そもそも活用できない代物です。調べられないテレビで、情報管理は論理的に絶対に不可能。テレビで情報など得られない。テレビで危機管理しようものなら、確実に破滅する。テレビを見ない生活習慣は必至です

情報化社会とは、膨大な情報を蓄積し、シュミレーションにより来るべき未来を予測するデータ社会を意味する。膨大な情報を収集し記録しなければ、情報化社会は成立しない。マスコミは正確な情報を収集し、常時公開する時代へと移行している。情報を抹消すれば、社会の改善はできなくなる。情報を抹消するところはマスコミでは無い

情報とはネットワークであり、全ての情報は繋がっている。だから情報を辿れば、必ず原因・元凶へと辿り着く。だから悪党は、情報の公開は絶対にしない。情報の公開なき世界は、悪党が蔓延り、世の中の改善ができない地獄と化す。日本は政府・政治家が支配する放送法により、情報の公開が阻止された、奴隷社会へと転落している


社会の情報は膨大なため、「情報の収集」「情報の蓄積」「情報の分析」をそれぞれ分業する時代に変化している。この3つが揃わなければ、適切な判断は論理的に不可能。情報化社会は情報の「収集・蓄積・分析」を行うデータを適切に管理するデータ社会を意味する

情報とは選ぶもの。選ばれたものでは決してない。報道の自由とは、選択の自由に他ならない。有用な情報提供・生活改善を目指す・社会正義を貫く。これはマスコミに必須の条件。日本のマスコミが失った、今や化石と化した正論です

情報は「失敗を繰り返さない」ための基礎データ。成功は「無数の失敗の上の成り立つ金字塔」。人は失敗を繰り返さないために記録を残す。失敗は人の日常であり、情報は同じ過ちを繰り返さないための「失敗の記録」でもある。人は「失敗」から学ばなければならない。人は過ちを繰り返さないために、記録を残し、失敗の回避を図る。データ無き社会は、同じ過ちを何度も何度も繰り返す。データ無き社会は、失敗から何も学べない。データ無き社会は、進歩を止めた奴隷社会へと転落する。人の歴史は、失敗の歴史であり、失敗を乗り越えてきたから今がある。情報は活用してこそ意味がある。活用できない情報に意味は無い

生活に必要な情報は、一人ひとりまったく違う。必要な情報は、自らの手によってしか得られない。必要な情報が得られないと、人は簡単に自滅する。次々に情報が失われていく日本の社会は、奴隷社会と変わらない

日本の「報道の自由」の世界ランキングは「66位」。データ不在が日本のマスコミの標準なので、理解と改善が一切できずに、年間2万もの人が自殺する。言うなれば、日本のマスコミによる年間2万人の抹殺です。「データ」が無ければ、社会の改善など絶対に不可能。社会正義は「情報の公開」が元になる

大手マスコミはデータの非公開が原則だから、金にならない社会の改善など、する気は端からまったく無い。大手マスコミに情報公開など存在せず、だから社会正義など存在しない。社会正義など欠片も無いのが、日本のマスコミの偽らざる現実です。国民を護る、という気がまったく無いのだから話にならない


社会正義が欠けているのは、悪党と同じです。悪党のマスコミは、意見で情報を捻じ曲げる。又は判断するためのデータを渡さない。判断材料を渡さなければ、人は勝手に自滅する。情報の公開をしなければ、人は勝手に破滅する。悪党は情報の公開を決してしない

意見とは主張であり、正しい・正しくないとの前提で情報を組み立てる。だから悪党の情報は、最初から狂っている

だから、悪党の情報は問答無用で切り捨てなければならない。意見を匂わせる情報は、即座に切り捨てる慎重さが必要です。おかしい情報をかぎ分けるには、普段から多種多様な情報と付き合いながら、情報の質を上げ、理を見抜く努力が必要です。理を知るには、行動理念を深く掘り下げなければならない。人には基盤となる膨大な基礎情報が必須です

日本社会の文明度は、情報を収集しない・記録しない・分析しない、データ皆無で社会の改善が不可能な原始社会へと逆戻り…。原因・元凶が分からない、何をしているのか分からない、物事の経緯が分からない、改善がまったくできない。日本は判断材料が得られずに生活の改善がまったくできない、生活水準が低下した貧困国へと転落

まともな情報が得られずに、社会の改善がまったくできない三流国家へと仲間入り。無能で狡猾な既存のマスコミの切り捨てと、有能なマスコミへの転換を促す情報化社会が到来している


人にとって情報とは、問題を解決するための基礎情報。記録し、纏め、資料化し、理解・解決・決断、改善・改良・修正のために活用する生活情報。端的に纏めると「原因・元凶を特定し、あらゆる方位から分析する詳細情報」「行動を起こすための判断材料」。真実が存在するところがマスコミであって、真実が存在しなければ、そこはもはやマスコミでは無い。情報化社会では、真実が存在する場所をマスコミと呼ぶ。今や日本の真実は、週刊誌・スポーツ誌・専門誌・専門情報サイト・海外のマスコミが牽引する。これがデータが次々に失われていく、日本社会の現実です

「消えて無くなる人の言葉・意見が公共だ!」と危機管理の情報を世の中から奇麗さっぱり消していく、最早狂気というべき致命的欠陥品のNHK。存在しない情報を、さも存在しているかのように思わせる、人を破滅に導く幻影です

公共は「情報の公開」と「情報の共有」が必至の危機管理。しかし日本の政府・政治家は、情報公開が不可能な欠陥品のNHKを「情報の公開」の道具に放送法で強制する。NHKは国民の破滅を何とも思わない、空恐ろしい代物です。悪徳政治家の隠蔽に特化した、国民からデータを奪う放送です。日本の「公共」は今や改善不能です。「日本の公共」は終わっている…


狂った情報は、前提そのものが狂っている。悪党は黒を白と断言する。情報の狂いは、基盤となる基礎情報がなければ見抜けない。人の言葉や意見とは、常識・論理・思想という基盤から生れ出る。元になった理を見抜けば、情報の狂いが分かってくる。「前提がおかしい」「人の意見を情報にすり替える」「都合の悪い情報が欠けている」「5W1Hになっていない」「履歴・詳細が欠けている」。悪党の情報は理を暴き、丸裸にしなければ見抜けない。理解するには、基盤となる膨大な基礎情報が必要になる

「テレビで情報公開を!」「テレビこそが至高の存在!」などとほざく輩は、間違いなく社会の改善などする気は無い。テレビで現状把握は一切不能。検証する記録データが無いのだから当たり前。テレビで社会の改善は論理的に不可能です

消えて無くなるものを情報とは呼ばない。人の役に立たないものは情報ではない。詳細に纏め、資料化しないものを情報とは呼ばない。人の意見は情報ではない。データによる予測は情報と呼べるが、人の意見による憶測は情報ではない。情報とは進む先に何があるのか、進んだらどうなるかを予測するための判断材料

情報は人の理解と行動を助け、正しい道へと導くもの。情報は判断・改善の資料として、しっかり纏めてデータ化する。消えて無くなるものを、情報とは呼ばない。それは只の宣伝です。判断材料たるデータは、似非マスコミには存在しない。マスコミの本懐とは、情報公開による世の中の改善です


人に必要な情報、生活情報の重要度は、人によってまったく違う。判断には関連する全ての情報を元にした、総合的判断が必須です。そもそも情報が欠けたら、適切な判断など絶対に不可能。得られる情報によって、判断は刻一刻と変化する。人の手に負えない膨大な世の中の情報は、自己管理が必須です

生活に必須の危機管理に、「エンタメ・スポーツ・ゴシップ」など必要無い。この3つ、実質的に意味が無く、真っ先に切り捨てるべき代物です。人にとって意味がなく、意味を求めること自体に意味が無い。「エンタメ・スポーツ・ゴシップ」は、本来週刊誌やスポーツ誌が扱うべき娯楽です。日常生活において、基本まったく意味が無い。まったく役に立たないから、人にとって意味が無い

「エンタメ・スポーツ・ゴシップ」から離脱するには、人物名や場所等の固有名詞を省くだけ。固有名詞を省くと、人の単なる行動です。宣伝は、固有名詞を省くと、その本質が露見する…


そもそも危機管理と娯楽を同列に扱うなど言語道断。テレビは「娯楽」と「危機管理」を完全に同一化。危機管理が娯楽に上書きされ、欠片も残さずに消滅する。消えて無くなる情報とは、認識を阻害し、人の視野を狭める幻覚です。情報を選別される生活とは、奴隷生活と同じです

情報の記録がまったく存在しないテレビ放送は、総合的判断が論理的に不可能な致命的な欠陥品。だからテレビで判断などしようものなら、確実に破滅する。テレビは何の役にも立たない時代遅れの骨董品。記録が無いから、理解も判断も改善も、何一つ成し得ない。生活改善が絶対に不可能な欠陥テレビに、意味を求めても意味が無い。テレビは今やアホ一直線の自滅の玩具

テレビは情報を纏められない致命的な欠陥品。「流して終わり」の欠陥テレビに、期待しても意味が無い。テレビは判断材料が存在しない奴隷の玩具。「データ」が無いから、予測が出来ずに確実に破滅する。判断できないテレビは、見てもまったく意味が無い。テレビを見る行為は、思考放棄に他ならない

テレビ放送との決別は、情報化社会の必然です。テレビを見る習慣とは、思考の短絡・判断能力の喪失です。つまり、人の無能化。判断できない異常な生活から抜け出すには、テレビ放送との決別が必至です


情報を選別し、判断を押し付け、人の判断能力の退化を招く。テレビは基本「宣伝の魔道具」。データ無し・予測不能のテレビなんかで判断しようものなら確実に破滅です。テレビで判断など技術的・論理的・物理的に絶対に不可能。テレビで判断などあり得ない

今や諸外国のテレビ放送は、国家の宣伝の道具と化しており、都合の悪い情報は一切報道しない。情報量が圧倒的に少ないテレビは、今や洗脳の道具と化している。テレビで判断など、実質的に不可能です

テレビからの離脱には、破滅の道具として忌み嫌い、生活から切って捨てるしか手段がない。テレビ放送とは「人の主張」を「情報」にすり替える、詐欺の論理に基づく事実誤認の迷宮です。「情報に見せかけた狡猾なテレビの洗脳」は、忌み嫌わねば身を亡ぼす。情報は検証が必須であり、検証すれば情報ではない紛い物だと瞬時に分かる

日本のテレビ放送は、無料ではなく有料です。国民の個人情報を掠め取り、恐喝したあげくに裁判に訴え、政府・政治家の悪政を鵜呑みにするよう強制し、生涯続く奴隷契約を強制する。正に情報を制限し洗脳を謀る、地獄行きの特急列車。インターネットをしている時点で、テレビとの決別は必至です

人の意見を情報にすり替え、全てが露と消え去るものを「公共」だと嘯く。テレビの時代は、とっくの昔に終わっている。テレビで必要な情報など得られない。テレビは生活に必要ない

テレビの基本理念は、宣伝を鵜呑みにする愚か者を作り出す人の無能化。空虚・無能に虚偽・杜撰。テレビは支配する側にとっては、非常に都合のいい代物。支配される側にとっては、判断材料皆無の地獄への特急列車。テレビで判断などあり得ない


消えて亡くなる「人の主張」に、意味を求めるのがそもそもの間違い。テレビに「情報」など存在しない。テレビにあるのは、人の狡猾な「主張」だけ。重要な情報が、次から次へと葬りされていく伏魔殿。人の言葉を「情報」にすり替える。それがテレビの本質です

テレビ放送とは、検証不可・活用不能・データ無しの欠陥品。人の視野を狭めて、全体像の把握を妨害する、余りに無能な致命的な欠陥品。テレビの映像とは、広い世の中を顕微鏡で覗いたピンホールの映像です。全体像の把握など絶対に不可能

テレビ生活とはデータ無き奴隷生活。テレビからの完全離脱。情報社会の必然です


「データ」とは、人の判断材料となる「基礎データ」。データがなければ、人はそもそも理解・判断・問題の解決など一切できない。テレビ中心のデータ無き生活とは、正に「奴隷生活」に他ならない

人は判断を誤るが、データは嘘をつかない。嘘をつくのは人間です。人は「言葉」を操り、情報を伝える。人は「言葉」を偽り、「真意」と「情報」を誤魔化す。「言葉」と「情報」はまったくの別物です。「データ」を元にした生活を、人は学ばなければならない

インターネットの全ての発言に法的責任を負わせようものなら、訴訟頻発で何も言えない社会になる。「何も言えない社会とは、無法がまかり通る恐怖社会」との現実をよく理解すべき

誤ったものは、誤ったデータとして、きちんと整理するのが情報社会の正しいルール。誤ったものを野放しにするから問題になる。これは現実社会とインターネットという仮想社会に共通する基本理念。正しいデータ、誤ったデータ、役に立つデータ、役に立たないデータ、危険なデータ、使ってはならないデータ …。データは正しい選別と、厳しい自己管理が必須です

インターネットの役割とは、正しいデータの集積です。情報とは選別が前提の選別対象にすぎない。複雑な要因がからまっているのが情報であり、決めつけなどもってのほか。情報はあらゆる方面からの分析・解析が必要な膨大な関連情報の集合体。そもそも膨大な関連資料がなければ、まともな判断など絶対に不可能

正しい情報を選び出す「選別能力」と、多様な情報から適切な判断が下せる「判断能力」が必須とされる情報化社会が訪れている。判断には「膨大な情報」との格闘が必至です

情報は与えられる時代から、自ら選別する時代へと進化している。情報化社会とはネットワーク社会を意味する。ネットワークは、全ての情報を繋ぎ、隠された真の姿を炙り出す。情報は繋ぐ時代へと移行している。テレビとの決別は必至です

「テレビ」に判断を伺う封建時代。情報化社会の到来と共に、とっくの昔に終わっている

「情報」とは選ぶもの。「選ばれた情報」に意味は無い。選ばれた情報を利用すれば、それは単なる奴隷です。人の生きる時間は有限です。データの存在しない「テレビを見る時間」とは、単なる時間の浪費です。膨大な情報が必要とされる時代に、映っている範囲でしか判断できないテレビなど、何の役にも立たないし、何の意味もありません

人を欺くのは簡単です。理解とは全体像の把握だから、繋がった情報を断ち切り、全体像を理解させなければいいだけだ。情報とは膨大なネットワークの集合体。ひとつの側面だけでは、決して判断できない代物です。少ない情報で全体を把握させないのが、人を騙す常套手段。物事の繋がりを断ち切れば、人は簡単に騙される

テレビのスイッチを切る。というか、テレビで情報の入手・分析など論理的・物理的に絶対に不可能。情報を検索する手段・情報を探す手段がまったく無い。正に奴隷・愚者の道具であり、自滅・破滅へとまっしぐら。テレビは単なる「主張」の道具。時代はテレビから、情報を検索し分析するモニターの時代へと移行している

テレビ放送からの完全離脱。まともな判断、まともな情報の収集は、まずそこから始まる。理解とは、全体像の構築です。時代は膨大な電子情報から、必要な情報を瞬時に選別して活用する、情報化社会へと移行している

情報の選別能力は、人が生きる上での必須能力。物事の善悪の判別は、情報の選別能力が基本です。人に必須の判断能力には、情報の正しい選別能力が必須です。情報には必ず「役立つ情報」「役に立たない情報」「無意味な情報(人の意見)」の3つが存在する。選別できなければ自滅です。テレビ放送からの離脱とは、人として生きるための選別能力と判断能力の回復です。テレビは忌み嫌わねば身を亡ぼす。テレビはデータ皆無の疫病神

テレビは見ない。テレビに情報など存在しない。テレビ(人の意見)の意味は、思考停止による思考能力の喪失です。情報を制限され、判断することができなくなり、人の意見に盲目的に従う、従順な奴隷が出来上がる。人としての分析能力・評価能力・判断能力の喪失です。情報を自ら得ることができない監獄です

「人の意見」が「情報」に化ける「テレビ放送」とは、人の認識を狂わせる「麻薬」と同じ。「人の意見」は「欲」と呼ばれる単なる人の願望です。放送法によって強制される「テレビ生活」とは、「欲望」まみれの享楽生活。破滅するのは当たり前

人に必要なのは、膨大な資料から適切な情報を選び出す検索・選別能力、選んだ情報を適切に纏める要約力。そして物事の正誤を判断する判断能力の育成です


コンピューターに例えると、情報の検索・抽出と、データの誤り補正。人の脳の限界を突き詰めたものがコンピューター。人は自分の能力を正しく活用し、その能力を伸ばしていく努力が必要です。人の根源は考えること。考えることをしなくなったら、人として終わりです

情報とは水の流れのようなもの。流れ、止まり、淀み、腐り、時に沸騰して蒸発する。情報もまた同じです。情報を流し、隠蔽し、問題のすり替えに、事実の改変、世の中を一つの話題で染め上げる。時に沸騰し真偽も分からずに消え果てる。その影で、悪事が耽々と進行し、社会腐敗が進行する。情報の流れが狂うと、社会が腐敗し荒廃する。水は自然に左右されるが、情報は人が支配する

物事は目に見える部分が半分で、残りの半分が人の根源たる心の部分。人は見た目で判断できない。人の心は、心の発言たる行動でしか見ぬけない。何を成し、何を成そうとする者か。人は言葉で人を欺く。人は行動でしか量れない

情報は適切に選別し、自分自身で纏めるもの。情報を整理整頓する処理能力は、人に必須の能力です。テレビは人の処理能力を破壊する

情報の流れや方向で、社会の異常が分かる。情報の流れとは情報の必要性や重要度。情報の流れが狂うと、必要な情報が得られずに、破滅へと突き進む。情報の方向とは、情報によって導かれる来るべき未来。方向を誤ると、地獄へとまっしぐら。見えるものだけが情報では無い…

マスコミの情報操作とは、情報の流れと結果の操作。必要な情報が得られない、世の中を都合のいい方向に操作する。情報操作は社会を悪化させる元凶です。事実以外のものは、情報そのものを狂わせる。物事は事実のみで判断するのが基本です。事実以外は、情報操作に他ならない。都合のいい結論へと導く情報操作は、人の道を狂わせる。情報操作と感じたマスコミは、信頼度がマイナスの唾棄すべき利権団体

操作された情報は「まとも」なようで「まともじゃない」。数字で誤魔化し、言い方で誤魔化し、最後は専門家を引っ張り出して巧妙に誤魔化す。「正しいと思わせたい」「このように持っていきたい」、との「操作の言葉」が紛れ込んでいるのが情報操作。だから、言いたいことを一つ一つ抜き出して、おかしな点を探り出す。そうすれば、おかしな「情報操作の言葉」が浮き上がる。情報をしっかりと検証すれば、情報操作の汚さが分かってくる

データだけで判断する習慣を身に着けると、付け足された余計なもの実態が、感覚的に分かってくる

「何かおかしい」「何かがズレている」と感じるのが情報操作。何がおかしいのか、しっかりと検証する習慣を身に着けなければならない。完全におかしいものを、正しいものに見せかけるには、前提として正しいものだと断定する。実際に機能しているのだから、おかしくても問題ない。前提そのものが狂っているのが、情報操作の特徴です。おかしな情報を発信するのが、マスコミに擬態した利権団体。正しくないものを当たり前に仕立てるのだから、利用すれば確実に破滅する

情報操作をするマスコミは、マスコミなどではなく、世論を操作する利権団体。日本には、マスコミに擬態した利権団体が沢山いる。見分けるのは簡単です。「判断データが無い」。「人の意見を情報にすり替える」。日本に蔓延る利権団体の特徴です。人を貶めるものだから、問答無用で切り捨てです

人が情報と向き合うには、脳細胞のフル活用が必要不可欠。漫然と情報を鵜呑みにする時代は終わっている。時代は膨大な情報を元に判断する、情報社会へと移行している。情報の検証は必須であり、検証を省くと、人は簡単に騙される。情報には「検証作業」が必須です
Back Ground: ねがい

そもそも卑劣なマスコミとは、如何なるものか。前提として、完璧なマスコミなど存在しない。世の中の情報は膨大すぎて、全てを正確に伝えるなど不可能だからだ。人の伝えるものだから、誤報もしかたがないし、後でしっかりと修正すればいいだけだ。マスコミの役割とは、今起きていることを正確に伝えること。社会の「不正・腐敗・欠陥」をしっかりと伝えること

つまる所、卑劣なマスコミとは、伝えるべきものを伝えない卑劣漢。記録として残さないエセマスコミ。全体像を把握させない屑マスコミ

人の理解とは「全体像の把握」です。現代社会は膨大な情報を扱う情報化社会。全ての把握が可能になり、全体像の把握が可能な社会。今や全体を把握できない情報は、欠陥情報にすぎない。卑劣なマスコミでは、全体像の把握が不可能。そして世の中の「不正・腐敗・欠陥」を正せない。卑劣なマスコミでは、社会の改善がまったく不可能

異常な状態を、当たり前だと思わせるのが卑劣なマスコミ。異常を正常だと「誤認」させるため、情報そのものが人を「愚者」へと変えていく。正常なものに、狂ったものを加えて、正常だと誤認させるのだから、人の感覚そのものが狂ってくる。卑劣なマスコミは、人をデータを正しく読めない、愚かな馬鹿へと変えていく。理解させないのが、卑劣なマスコミの特徴です。見本は全ての記録を抹消するNHK。政府・政治家が社会悪化の元凶だと、理解させないようするのが仕事です。NHKとは、全てを抹消し、全てを無かった事にする、国民を無能化する放送です

テレビにデータは存在しない。テレビに判断材料など存在しない。テレビ生活をシュミレーションすると、必要な情報を得られずに自滅する未来しか訪れない。自滅とは自殺を意味する。年間2万人もの自殺が発生する、テレビを公共に指定する国、日本。テレビを見ない習慣は、今や情報化社会の常識です

「人の意見で判断を促す」のが卑劣なマスコミの常套手段。人の意見を持ち出す時点で、まともな取材などする気がなく、正確な物事の把握を完全放棄。つまり、まもとな情報なんかじゃなく、勝手な物事の断定と、勝手な判断を促す詐欺行為。情報とは正確な事実であり、改善するための基礎情報。人の意見が紛れ込む余地などまったくない

卑劣なマスコミは人の正常な感覚を狂わせる。原因・元凶が何一つ分からない。「問答無用」で切り捨てです

卑劣なマスコミとは、全体像の把握を阻み、記録を残さず、社会の不正・腐敗・欠陥を放置し、社会の改善を阻むもの。マスコミの役割とは、いったい何が起こっているのか、正確に伝えることに他ならない。役に立つマスコミでは、社会の改善ができ、より良き社会の構築が可能になる

社会の改善を願う国民の希望を叶える者を、国民は敬意を表してマスコミと呼ぶ

真実とは自分で悟るもの。真実を悟ることができる者を人と呼ぶ。成長できる者を人と呼ぶ。「自分は人なのか?」と、常に自分自身に問いかける必要があるだろう

情報には必ず意図がある。意図のない情報など存在しない。人は必ず情報の真意を見抜かなければならない
Back Ground: Interstellar

インターステラーの映画では、答えは事象の地平線の彼方にあるブラックホールの中に存在した。見ることも抜け出すことも叶わぬブラックホールに飛び込み、観測データを送信し、答えに人を導いた。全てはデータから導かれ、人はデータを元に答えを見出す

この映画では「穏やかな夜に身を任せてはいけない。たとえ老いても、終わりゆく日に燃えたぎり、怒るのだ。怒れ、怒れ、消えゆく光に怒れ」との詩を通じて、常に前へ前へと前進するのが人という生き物だと奮起を促す

停滞とは後退であり、停滞は消えゆく光となる。だから人は停滞に怒らなければならない。前進しない自分自身に怒らなければならない

人はデータ無き世界に怒らなければならない



神の訴訟
大手マスコミの元新聞記者が、「自分の記事を公に批判した」という理由で裁判に訴えている。この行為にどのような意味があるのだろうか?。何十年もマスコミの第一線で活躍してきた人物なのだから、マスコミの代表としての正当な行為なのだろう

相手の人格を批判してはならない。これは常識の範囲内。まあ当然だろう。「お前は馬鹿だ」と言われれば、誰でも怒る。元記者は「お前は嘘つきだ!」と言われたのを怒って訴えたのだろうか

ここで問題になるのが、「嘘つき」が人格批判に当たるかどうか。批判自体が嘘つきだと言っているのと同じだから、「批判」は良いが「嘘つき」は駄目は無いだろう。ただの言葉遊びにすぎない

この裁判では不思議な事に、名誉毀損で「自らの記事の名誉を争う」という訳の分からない事態になっている。これが理由なら「俺の記事は神の声だから批判は許されない!」となる。今のやりたい放題のマスコミなら当然の主張だ(笑)

「マスコミの言葉は神の言葉。疑ってはならない! マスコミは[報道の自由]に基づき、全てが許される神! 私を批判する者どもよ! 悔い改めよ!」

と言う事なのだろう。開き直ったマスコミの「嘘など言っていない」に通じる、「肉を持つ神」の当然の主張だ

この裁判から見えてくるのは、マスコミという「肉を持つ神」としての神聖にして侵すべからざるものの正体。虚構の世界に住まう住人の、桁外れの傲慢な意識には恐れ入る。さすが「肉を持つ神」は言動が違う(笑)

凡人には理解しかねるため、「NHK・新聞・テレビ」という「肉を持つ神」の宣託からは距離を置く・・・

彼らの言葉は、神の領域という異界からの宣託。破滅の臭いが漂う禁忌の場所には、近寄らずにいるのが身のためだ。「君子危うきに近寄らず」とは、このための言葉


人は理想の環境を創りあげ、存続させる規約を作って適応する。人は環境を創り、その環境に順応する。環境整備を誤ると、規格外品が量産される(笑)自然界なら自然淘汰で修正されるが、人間界は人の手で整備しなければならない

社会の正常化を促すべきマスコミが、異常の発生源になるとはこれ如何に。主張を丸投げして知らん顔。マスコミは信頼性を元に選別する時代です。何が悲しくて、主張などという訳のわからないものを利用しなければならないのか

彼らの実績は、情報を商売にする基礎を作ったことだけ。それだけは認めるが、今やその情報の価値が下落している。情報が瞬時に得られる社会では、納得できる結果を得られるものでなければ意味を成さない。情報の価値が厳しく問われる時代です

狂った価値観は、自分自身では気づけない(笑)物悲しい「電波」の曲は、そのむなしさを教えてくれる(笑)人は自らの愚かさを認識しなければならない。人は必ず、評価の基点を外に求めなければならない。人を評価する前に、自分自身の評価が必要なのが現実です(笑)評価基準を自分自身に設定すると…人は必ず狂う。当たり前です。人の航路の評価基準は誤ってはならない

誤っても元に戻れる、そのような優しい社会…だといいな(笑)正義と不義の、明確な線引きが必要なのだろう。それは非常に難しく、非常に厳しい。人の歴史は正解の模索にすぎないのだから…。だからこそ、人は果て無きむなしさと闘わなければならない(笑)
Back Ground: 果てなき希望Alive A Life

人の価値観など人それぞれ。その中から共通の価値観を拾い出す、細かな配慮ができる所だけが生き残る、そうゆう時代が訪れている。情報の氾濫は、正しいものへと収束し、情報の淘汰が始まる。価値ある情報だけが生き残る、厳しい生存競争の時代へと進化していく

元々が単なる娯楽。それがいつのまにか成り上がって、「神」にまで増長してしまっただけ。メッキの剥がれた「肉を持つ神」に、もはや人々の信頼が戻る事は決して無い。今やマスコミの主張と、国民の主張が交わる事は決して無い。何故なら、マスコミは自身の理想の実現を目的にしているからだ。事実を伝える使命を忘れた、只の利権屋

彼らの無料の情報を比較・検討する分には問題ないだろう。他の情報と比較すれば、それがいかに偏向されたものであるかが分かるだけだが(笑)凡人には、あらゆる情報がつまったインターネットが合っている(笑)人を見下す「神の宣託」はもうこりごり(笑)情報は自らの手で選別する時代へと移行している

この不条理な裁判は、「情報に形は無い」という姿なき情報の歪さに起因する。形なき情報は簡単に暴走する(笑)情報は物事を理解するための基礎概念。概念が狂えば、人は認識を誤る。狂った概念は、人を奈落へと突き落とす

マスコミは選別し、育てる時代へと移行している
Back Ground Music: Master of Tides

情報は「検索」し、「調べる」のが基本です

自分で検索し、自分で調べ、自分自身で判断する。情報とは証拠となる「記録データ」。インターネットの情報は、基本証拠となる基礎データ。だから、何でも公開できるインターネットの情報は、検証と実証が必須になる。そもそも検索できないものは、検証・実証が不可能な記録なきまがいもの

情報とは単なる判断材料。情報は信じるものでは無く、判断するための単なる材料。時々刻々と変化するのが情報です

だから情報を信じると騙される(笑)それが情報かどうかを判断するには、正しい判断材料かどうかの検証が必須になる。情報は検証しなければ使えない代物です。情報には、使えるものと、使えないものの2種類しか存在しない。若しくは、正しいものか、正しくないものか…。使った場合の影響も、考慮しなければならない。検証し、判断材料として活用できなものは、そもそも情報と呼べる代物ではない。それは単なるまやかしです

情報は信じるものでは無い。情報は決して信じてはならない。何故なら、情報とは常に変化するものだからだ

情報は検証と分析が必須になる、単なる判断材料にすぎない。情報とは結論を導き出す一要素にすぎない。判断し決断するのは自分自身。決断するには、関連する膨大な判断材料と、高度な分析能力が必要です。決断を人任せにするのは、考えることを放棄した愚か者。決断するには、膨大な関連情報の収集から始めなければならない

情報の見方や実感は、人によってまったく違う。住む環境や政治体制によっても情報の価値が変わってくる。それは、情報の主体は人にあるからに他ならない。情報は人に影響を及ぼすため、どのように役立てるか、自分自身によるコントロールが必要です。情報とは役立てるのが基本であり、役に立たないものに意味は無い。自分でコントロールできないものは、情報などではなく、人を制御するための洗脳です

だから人は、情報を自分で制御する術を学ばなければならない。情報は音楽・映画・ドラマなのどの映像データ、小説・雑誌・情報誌などの文字データ等々、様々な形を成している。情報を検索できるようデータ化し、インターネットに公開することで情報の管理ができる。膨大な情報は、インターネットを通じて結びつき、多様で詳細な情報へと進化する。データは公開しなければ活用できない代物です。データの公開なき情報は、何の役にも立たない

放送法に守られた「NHK・新聞・テレビ」と呼ばれる、批判されれば裁判に即訴える凶悪な利権団体。証拠となる「公開データ」は、塵ひとつ残さない。だから危機管理などまったく不能

「政治家の悪事は忘れましょう」「企業の悪事も忘れましょう」「社会の改善など必要無い」と宣う、とんでもない利権団体。役立たずのオールドメディアと呼ばれる所以です
Back Ground Music: どろろ

情報は常に人を欺く。何故なら、完全な情報など無いからだ。意図的に欺くか、欠落した情報で欺くかの違いがあるだけ。情報は情報量が多ければ多いほど、信頼性が向上する。理解するには、多種多様な膨大な情報が必須になる

人を欺く基本は、情報を残さない。つまり記録をしなければ人を簡単に欺ける。記録なき情報に、そもそも意味など存在しない。テレビに意味が無いのが良い見本。記録化は情報化社会においての基本です

都合のいい情報の選別は、日本のマスコミの常套手段。都合のいい情報だけを選別し、その実態を偽る。欠落した情報は、合法的に人を騙せる。人を合法的に騙すのが、実態を偽るマスコミに擬態した利権団体の特徴です。情報操作は、マスコミに擬態した利権団体(NHK・新聞・テレビ)の常套手段

最も重要なのは、全体像の把握。全体像を把握できなければ、間違いなく判断を誤る。内容と情報量が適切でなければ、情報は意味を成さない。意味ある情報にするには、適切に情報を纏め分析する作業が必須になる。適切な情報を集め、適切に分析し、適切な行動をとる。それができなければ、人は簡単に自滅する

人を欺く利権団体。その役割とは、全体像の把握の妨害です。オールドメディアで、適切な判断は一切不能…。与えられた情報で、決められた行動しかとれなくなる。想像力の欠如、判断能力の欠如、判断材料の欠如、行動力の欠如‥‥。オールドメディアの利用は、人の能力の著しい劣化を招く。情報を読み解く能力は、情報化社会では必須です

オールドメディアの特徴は、過去からの記録データが存在しない、証拠となる行動履歴が存在しない、全体像の把握ができない。即座に消える人の言葉を基本にする、刹那の情報がオールドメディア。破滅するのは当たり前

物事は全体像を暴かない限り、人を欺き続ける。情報は信用してはならない、と言われる所以です。世間一般の理とは「一寸先は闇」。だから、リアルタイムの情報が世の中を動かしていく。物事が変わると、判断が真逆になるのが日常です。たった一つの情報で、判断そのものがひっくり返る。分からないとは、現状を詳細にデータ化し、適切な分析を行った上で記録として残さないこと。世の中は、基本何も分からない。分かるようにデータ化したものが情報です

情報とは判断材料。それ以下でも、それ以上でもない、判断するための材料にすぎない

危機管理とは、不正・腐敗・欠陥などの基礎データ。言い換えると、世の中を改善するための基礎データ。危険から身を守るのが危機管理。危機管理のデータが無いのが、日本のマスコミの偽らざる実態です。人の身を護れないのが、マスコミに擬態した利権団体。危機管理は自分自身で行うのが基本です

情報化社会で生きるには、危機管理のできる体制を整えなければならない
Back Ground Music: マインドコントロール

洗脳とは、自分で回答を出さない。洗脳とは妄信。洗脳は過ちを決して認めない

洗脳を解くには、「人は過ちを犯す」ものだと認めなければならない。正しいのか、間違いなのか、正しい判断を模索する。過ちを認め、過ちを正す。それが人の日常です。洗脳は過ちを正せない

数多くのデータから、適切な回答を導き出す情報社会は、洗脳からの離脱でもある。情報が常に変化するように、判断もその都度変化する。社会の変化に、適切に対応できるのが情報社会。情報を制限するのが洗脳です。少ない情報で、物事は決して判断できない

情報化社会の神髄とは、数多くのデータから適切な回答を導き出すシュミレーション。データが揃わなければ、そもそも判断など不可能です



判断基準
物事を判断するには、必ず判断するための基準がいる。この基準が狂うと、全ての判断が狂ってしまう。人は何故判断を誤るのか。それは、判断の基準が誤っているからに他ならない

古今東西、人の歴史を繙くと、人の勝手な基準で物事が決められて、破綻した事例が山のように存在する。人の誤った判断基準が、人を破滅へと導いていく。人は同じ過ちを延々と繰り返すから、事実を詳細に記録して、後の時代に教訓として残してきた。人の歴史とは、人の犯した過ちの記録でもある

時代は進化し、全ての事実を記録して、瞬時に閲覧して判断できる情報社会へと移行した。しかし日本の政治家共は、同じ過ちを犯すために、テレビを情報公開の道具に仕立て、事実を詳細に記録しない、証拠の記録を破棄するとの暴挙に出た(笑)日本の政治家が、如何に愚かな馬鹿なのかが良く分かる

歴史に学ぶと、人は己の欲に支配されるものだから、基準は必ず外に設けなければならない、ということが分かってくる。所謂、独断・独裁を許さない体制だ。独断とは、自分勝手な考えで物事を判断すること。これを防ぐには、独断できない組織作りが必須になる

組織とは、決められた基準に則って動く人の集まり。その基準は、勝手な独断・独裁ができない厳しいものが求められる。組織が独断・独裁ができるようになったなら、全ての判断が狂ってしまい、破滅へと突き進む。それは、人の歴史が証明する

自分は絶対に間違わない、自分の意見が正しい、自分の判断に間違いはない。自己判断が基準になると、物事は必ず狂ってしまう。何故なら、自分以外のものはまったく考慮しなくなるからだ。歴史に学ぶとは、行動を学び、倫理を学び、何が正しいものか、試行錯誤を繰り返すこと。己の欲を満たすための行動は、必ずまともでないものへと突き進む。それを阻止するのが、組織の厳しい規則であり、外部による厳しい監視になる

人の勝手な判断が蔓延るようになったなら、それは正しい基準が崩壊していることを意味している。独断・独裁を止められなくなったなら、その先にまともなものなど存在しない

「人の意見で判断するな」とは、人の勝手な判断を基準にするな、との戒めでもある

「情報の公開」とは、人の歴史の記録になる。人は歴史の記録を元に、物事を判断し、物事を適切に改善してきた。歴史の途絶は、滅びを意味する。何故なら、人の欲望に歯止めが効かなくなるからだ。つまり、倫理なき無法がまかり通ることになる

人は己の欲に忠実だから、必ず過ちを犯してしまう。欲に支配される人の宿命と言えるだろう(笑)これを正すには、過ちを即座に正せる環境が必至になる。過ちを正せない環境になろうものなら、独裁蔓延る阿鼻叫喚の地獄と化す

「情報の公開」は、過ちを正すために必須となる、理解と判断に必要な最も重要な情報だ。情報の公開が無ければ、理解が出来ず、過ちを正すことができなくなる

「情報の公開」とは、社会の異常を正す安全装置。「情報の公開」という安全装置が無くなったら、「不正・腐敗」が蔓延る地獄と化す。だから、「情報の非公開」に繋がるものは、問答無用で切り捨てなければならない

人は必ず間違いを犯す。だから間違ったら、正すための安全機能が必ずいる。日本の馬鹿な政治家は、国民から選ばれたから何をしようが許される、などという非常識な考え違いを平然とする。国民の信頼を裏切る政治家など、国民にとっては人に仇名す害虫だ。政治家は、国民から生活を改善するという、重大な期待と責任を背負っている。期待と責任を放棄する悪人が、人に歓迎されると思うなど、考え違いも甚だしい。選ばれたら何をしようが許される、との自分勝手な考えは、独裁者の思考とまったく同じ。さっさと辞めさせるための法律が必要だ

しかし日本の政治家共は、間違いを犯した政治家を、辞めさせる法案など作らない。日本の政治家が、如何に愚かなのかが良く分かる。馬鹿な政治家を選んだ、紛れも無い日本国民の失敗だ(笑)

日本のロケットの発射中止を失敗だと断定した新聞記者がいたが、日本の政治の狂いは、間違いなく「日本国民の政治家選択の失敗」だ(笑)国民は政治家の選択を失敗したことを、素直に認めなければならない

「破滅」とは、必ず過ちを正せない事が発端になる。「破滅」を回避するには、過ちを正せることが必至になる

日本国民が政治家の選択を失敗したから、誤った判断によって政治が狂う。当然の結果です(笑)判断基準が狂うのだから、政治が狂うのは当たり前。日本の政治家の「情報公開」は必至です

日本の政治が狂っているように、世界の政治も狂っている。自分の判断を基準にして、自分勝手な行動をしているからだ。自分が基準だから、他の事は考えない(笑)自分さえよければ構わないとの、独断・専横がまかり通る。大国が拒否権を使って、世界の基準を歪めてきた反動だろう。拒否権無き、平等な国際社会の構築が必要になったと言えるだろう

人には適切な「調和」が必要なんだろう。音楽は音の調和を計る芸術だ。人は音楽を聴いて安息を得ようとする。調和を乱す音を、人は躊躇なく切り捨てる(笑)人によって好きな音楽が異なるのは、その人の調和の基準の違いと言えるのだろうか(笑)

人の調和を乱す者とは、己の欲望に忠実な者と言えるだろう。人の発言は、人の欲望そのものであり、その行動はその人の判断基準の成果となる。人はその行動でしか判断できない(笑)人は何を考えているか分からない。どのような思考をする者か判断するには、その行動を見ればいい

映画や物語の中では、人を傷つける悪党・盗賊は、主人公が問答無用で切り捨てる(笑)何故なら、人を傷つける行為を正当化する者だと判断したからだ。ほっとけば、又同じ行為をするから切り捨て以外に道は無い(笑)現代社会は刑務所で更生させるから、斬り捨てなど許されないが(笑)

まあ、人の固定化された概念は、そうそう簡単には変わらない。犯罪には「相当な罰則」と「被害者への弁済」が必要なのだが、日本の場合は「被害者への弁済」が消されてしまう(笑)犯罪に遭ったら、金は戻らないのが現実だ。騙し取られた金は、法で確実に取り戻すようにしなければ、被害者は泣き寝入りするしかない。日本は詐欺師に寛容な国なのだ(笑)

日本では「テレビが公共」に放送法で強制され、テレビを公共して利用することを強要される。テレビを公共にしなければ、放送法による罰則が科せられる。これは日本の政治家による政策だ(笑)日本の政治家にとって公共とは、テレビを意味するものらしい(笑)どんな馬鹿なのか、との話でしかない(笑)日本の政治家共は、自分の発言や行為の責任を、一切取ろうとしない悪人だ(笑)証拠は一切残さないし、責任など一切取らない。これが日本の政治家の判断基準

人の判断基準は、このように一人々まったく違う(笑)

基準の世界統一など、SFの世界にしか存在しない(笑)宇宙連邦・地球連合など、地球規模の統一だ。しかし、その統一も、他の統一国家と覇権を争うことになる(笑)基準の統一が如何に難しく、如何に困難なものかが良く分かる(笑)

基準は個人の判断という小さなものから始まり、学校レベル、企業レベル、村レベル、町レベル・県レベル・国レベル・地球レベル・宇宙レベルへと、際限なく拡大する(笑)基準は人の判断が元になるから、その派生は無限大に膨張する(笑)基準の設定が、如何に困難なのかが良く分かる(笑)

人は判断し行動する時、「一体何をしたいのか」「一体何をさせたいのか」との視点から物事を考える

自分で行動を起こす時、「自分は一体何をしたいのか」との発端から始まる。次に、それは正しいものなのか、それは必要なものなのか、それはどうすれば実現できるのか…等々の論理の組み立てが必要だ。この論理の組み立てを行うためには、膨大な前例から学ばなければならない

人に必要なのは、生きることに必要な情報と、生きるために必要な判断基準。人は判断するための基準を学ばなければならない。人の判断とは、その人が積み上げてきた「判断基準」の集大成。人の判断によって、その人が学んできた「生きるための判断基準」が分かる

子供に「学び」が必要なのは、この判断に必要な基準が必要だからだ。「むやみに生き物を殺さない」「嘘をつかない」「人の物を盗んではならない」「不道徳なことを犯してはならない」など、人に必要な基準は数多にのぼる。人が道を誤るのは、生きるための正しい基準を身に付けていないからだ

人が学ぶ時、その基準が世の中で正しく守られているか判断する。それが守られていなければ、それは必要の無いものだと判断される。生きるための基準は、守られてこそ発動するということだ。守られない基準など、無いのと同じ。基準は守られてこそ意味を持つ

基準が守られていなければ、その基準は意味を持たない。日本の政府・政治家は、証拠は一切残さない、その発言や行為に対して責任など問われない。これが政府・政治家が決める法案の基礎なのだから、国民はたまったものじゃない(笑)

日本の基準が崩壊するのは当然だ(笑)基準が守られているかどうかの「情報公開」が必至になるのは当然だ。「情報の公開」とは、社会の基準が正しく守られているかどうかの検証だ

「情報の非公開」は、必ず「不正・腐敗・汚職」の温床となる。「情報の公開」が如何に重要なのかが良く分かる